【後期ロマン派の生き残り】ラフマニノフの生涯と聞くべき名曲!

アガサ

モインモイン!皆さん、こんにちは♪
ピアノ大好き、ラフマニノフ大好き主婦のアガサです^^

趣味でピアノを楽しむ皆さんへ送る「作曲家や楽曲についてより深く知ろうシリーズ」の第1弾です♪(シリーズ勝手に始まる。笑)

趣味でクラシックピアノを弾いていく上で、作曲家や楽曲について今一度確認して、演奏の表現力向上や楽譜を読み解く力を付けよう!という当ブログのシリーズです♪

今回は、ロシア生まれの作曲家でピアニストの「セルゲイ・ラフマニノフ」について取り上げます!

みんな大好きラフマニノフ^^!!

目次

ラフマニノフの簡単年表

では、ラフマニノフの生涯を年表にしましたので見てみましょう♪

以下の年表は、大まかな事柄のみを13個のポイントに絞り記載しています。

POINT
1873年
ロシア帝国に生まれる

4歳から母にピアノの手ほどきを受ける。
母の伴奏を聴いてすぐに暗譜したセルゲイが、後日知り合いの前で演奏を披露して周囲がその才能に驚いたそう。
アンナ・オルナツカヤというピアノの先生の家に住み込み、レッスンを受けていた。

POINT
1882年(9歳)
実家が破産し、ペテルブルクに移住

元々一家は没落しかけており、この時期に破産し家族でペテルブルクに移住。
オルナツカヤ先生の推薦を受けてペテルブルク音楽院に入学。
宗教教育に熱心だった祖母に連れられてラフマニノフはよく教会へ通うように。
その後のラフマニノフの音楽に多大に影響してくる、”聖歌”や”鐘の重厚な音色”は、この頃から影響を受けたと言われている。

POINT
1885年(12歳)
モスクワ音楽院へ転入

ピアニストの親戚の勧めで、モスクワ音楽院へ転入し厳格な師の元で寄宿しながらレッスンや作曲に励んでいた。
ここでチャイコフスキーに才能を認められたものの師との間にトラブルが起き、父方の親戚サーチン家(将来の妻・従妹のナターリヤの家)に移り住むこととなった。

POINT
1891年(18歳)
モスクワ音楽院を大金メダルを獲得し卒業

卒業公演では、同級生のスクリャービンと共に大金メダルを授けられてモスクワ音楽院を卒業。
レッスンで収入を得ながら作曲に勤しんでいたが、崇拝していたチャイコフスキーの死により低迷期に。

POINT
1897年(24歳)
『交響曲第1番』の初演が大失敗に終わる

様々な要因が不幸にも絡み合い『交響曲第1番』の初演が大失敗。
心身喪失で鬱状態となり3年間も作曲活動ができず、演奏活動中心に。

POINT
1900年(27歳)
精神科医ダーリの心理療法で快復

創作意欲が復活し、名曲『ピアノ協奏曲第2番』が完成。この名曲が大成功を収めたことでラフマニノフは作曲家として飛躍していくことなる。

POINT
1902年(29歳)
従妹のナターリヤ・サーチナと結婚

結婚後モスクワに住み、作曲活動の傍ら音楽教師として活動。
ボリショイ劇場の指揮者を務め成功を収めたこともあったが、社会情勢のイザコザに巻き込まれ、指揮への熱は冷めていった。

POINT
1906年(33歳)
ドイツに滞在(1909年まで)

政治的に混乱していたロシアを離れ、作曲に適した静かな土地へ行きたい、とドイツに移る。
無気力や無関心というマイナスな感情と向き合いながらもこの地で『ピアノソナタ第1番 ニ短調』と12年ぶりに交響曲の作曲に着手。
ペテルブルクにて『交響曲第2番 ホ短調』を初演し熱狂的な賞賛を得る。

POINT
1909年(36歳)
アメリカに演奏旅行へ

NYにて、名曲『ピアノ協奏曲 第3番』初演。
1915年にかつて同級生だったスクリャービンの訃報を聞き、スクリャービンの作品を演奏し追悼した。ラフマニノフが自分の作品以外のピアノ曲を聴衆に聞かせるのはなんとこれが初めてだった。

POINT
1917年(44歳)
ロシアを出国(この後2度と戻らない)

祖国ロシアの戦場からは遠く離れて、経済が発展しているアメリカで活動した方が収入が増えると考えたラフマニノフは、アメリカへ移る。
以後はコンサートピアニストとして主に活動。

POINT
1931年(58歳)
スイスに別荘を建てここで生活する

ロシアを出国してから、演奏活動が多忙であったことと祖国を失った喪失感で作曲活動はほとんど出来なかったラフマニノフ。
渡米後から亡くなるまでの24年間、完成させたのは僅か6曲だった。

POINT
1942年(69歳)
家族でアメリカのビバリーヒルズへ移住

様々な体の不調があった為、医師から温暖な土地への転住を勧められビバリーヒルズへ移住。
左手小指の関節痛に悩みながらも、演奏活動を続けた。

POINT
1943年(69歳)
自宅にて死去

モスクワに埋葬されることを願っていたものの、戦争中であることやラフマニノフがアメリカの国籍を取得していた等の理由からそれは叶わず、NYに埋葬された。

いかがでしょうか?

ラフマニノフは現代でも愛される名曲を数多く生み出していますが、決して彼の人生は順風満帆とは言えませんよね。

敬愛する家族や師との別れや、作品の初演の失敗などで心を痛めてしまったことから繊細な心を持った人物であることが分かります。

彼が遺した軌跡とも言える作品を演奏する際に、この背景を知っていると知っていないでは絶対に演奏は変わります

楽曲を演奏する際に重要なのは、“楽曲が作られた背景”“作曲家の感情”なども踏まえた上で演奏することです。

本来は楽譜の譜読みをする際に勉強をして「それを踏まえてどう演奏するか」考えておくと、より良い音が作り出せますがすでに彼の作品を演奏している今からでも遅くはありません。

偉大な作曲家ラフマニノの人生をほんの少しでもいいので、心に留めておいていただければ幸いです。

夫(ピアノ未経験)

名前はアガサからよく聞いてたけど、こんな人生を歩んだ作曲家だったんだね。

アガサ

そうなんだよ〜。ラフマニノフの歩んだ人生の中で名曲の数々が生まれているからこれを知っておくと、本当に音が変わるんだよ。

夫(ピアノ未経験)

クラシックって奥が深い!
でも年表見てるだけじゃラフマニノフがどんな人なのかはまだわかんないな〜。

アガサ

オッケー!
じゃあ次の項目では”ラフマニノフの人物像”について説明するよ♪

ちょっと休憩♪

ラフマニノフは、渡米後レコードなどの記録媒体に対して積極的に興味を示し録音を行なっていました。

その録音された本人演奏の記録が最新技術で蘇り、私たちは現在も音源を聴くことができています。

「より深くラフマニノフを理解したい!」という趣味ピアノガチ勢の方は、作曲家の意図を汲み取ったり曲の解釈がしやすくなるので一度は聞いてみることをお勧めします♪

ラフマニノフ自身が演奏した、演奏ピアノ協奏曲全4曲とパガニーニの主題による狂詩曲が収録されています♪

1942年までに録音したCD10枚分の録音集大成の作品です♪

ラフマニノフの人物像

さて、ラフマニノフは、上述の年表の通り1943年に69歳という若さでこの世を去りました。

時代区分としては近現代といえますが、音楽的には後期ロマン派の名残を受け継いだ最後の作曲家と言われています。(時代区分するのが難しい作曲家です・・・)

数多くの名曲を世に送り出してきたラフマニノフですが、皆さんはどのようなイメージを抱いていますか?

残されている彼の写真を見る限り、気難しそうではありますよね?(失礼)

実際はどうだったのでしょうか。

以下で見ていきましょう♪

性格

ラフマニノフは、非常に真面目な性格で寡黙だったと言われています。

幼少期に一家が破産したことや両親の離婚、そしてお姉さんとの死別などが彼の人格に影響した可能性も大いにあります。

更に「交響曲第1番」の初演の失敗によりノイローゼが再発し、次第に限られた人にしか心を開かなくなりました。

ピアノ協奏曲の依頼を受けながらも、精神的に衰弱し作曲活動もままならなかったそうなので真面目な性格というのも頷けますし、繊細な心の持ち主で責任感の強い人物だったのではないでしょうか。

更に、ラフマニノフは「気前が良かった」とも言われています。

ロシア出国後にピアニストとして成功し、収入をたくさん得るようになると、革命後の混乱の中で苦しんでいる芸術家や団体を支援していたそうです。

収入をたくさん得たから、と言って誰しもが皆支援するかと言われるとそうではありませんよね。

自分だけではなく、自分と同じように芸術や音楽を愛する人や物には支援を惜しまないというその熱い思いはラフマニノフの優しさでもあり人柄そのものを表していますね。

交友関係

様々な音楽家と親交があったラフマニノフですが、同じくロシア出身の偉大な作曲家ピョートル・チャイコフスキーを非常に崇拝していました。

チャイコフスキーが亡くなった際には、追悼として「ピアノ三重奏曲ニ短調 偉大な芸術家の思い出 op.9」を作曲するほどでした。

そして、史上最も偉大なピアニストと言われているウラディミール・ホロヴィッツと親交があったことも有名ですね。

1928年にアメリカでホロヴィッツと初対面を果たし、2人で「ピアノ協奏曲第3番」を2台のピアノバージョンで演奏しました。

アガサ

スーパースター同士の共演!夢のような空間ですね・・・。

この他にも、モスクワ音楽院で同級生だったスクリャービンや数多くの音楽家たちと交友関係がありました。

夫(ピアノ未経験)

作曲家って孤独なイメージがあったけど、意外と色々な人と親交があるんだね。

アガサ

音楽家同士のつながりはもちろん、芸術家と交流がある作曲家も多いんだよ。

夫(ピアノ未経験)

なるほどね〜。
なんかラフマニノフの曲、どんな物があるのか気になってきた!

アガサ

よしきた〜!
次は、ラフマニノフの名曲を紹介していくね♪

ラフマニノフの名曲

次に、必ず1度は聞いておくべきラフマニノフの名曲をご紹介します!

と言っても、ラフマニノフはピアノ曲以外にもたくさん名曲がありますので今回は分かりやすく以下4つに分けてみました。

この他にも、室内楽曲や管弦楽曲なども有名作品はありますが、今回は上記の4つの種類の名曲をご紹介しますね。

ピアノ曲

ラフマニノフのピアノ曲は、現代でも数多くのピアニストやピアノ学習者によって演奏されています。

ピアノ曲の有名曲は、主に以下の通り。

「ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36」以外は全て何曲かまとめて収録された曲集になるので、その中の有名曲について以下で詳しく解説します。

幻想的小品集 op.3

この作品は、ラフマニノフが1892年に完成させた曲集です。

全5曲が収録されていますが、有名なのは第1曲「悲歌(エレジー)」第2曲「前奏曲(鐘)」です。

第2曲「前奏曲(鐘)」は、ラフマニノフのピアノ曲の中でも最も有名であるといっても過言ではないでしょう。

第1曲「悲歌(エレジー)」

Irina Lankova Official Channel
アガサ

悲歌という題名の通り、哀愁が漂った悲しげな旋律が印象的な曲です。

第2曲「前奏曲(鐘)」

髙木竜馬 / Ryoma Takagi
アガサ

ロシアの釣り鐘をイメージした重厚な和音が印象的な曲です。
日本では、フィギュアスケートの浅田真央さんが使用されていたことで、有名になりましたね♪

楽興の時 op.16

ラフマニノフが1896年に作曲した、全6曲からなるピアノ曲集です。

この曲集は、シューベルトの「楽興の時」から着想を得て作られたと言われています。

この中で有名曲といえば、第4曲の「プレスト」でしょう。

第4曲「プレスト」

TOMOKI SAKATA OFFICIAL CHANNEL
アガサ

ショパンの「前奏曲」に着想を得て書かれたと言われている曲で、ラフマニノフらしいキャッチーなメロディーが盛り込まれた有名曲です。
かっこいいだけではなく甘美な旋律が組み込まれていて、これぞラフマニノフ!と言っても過言ではない曲です。

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36

ラフマニノフが作った2曲のピアノソナタのうち最後の作品で、1913年に作られた曲です。

この頃のラフマニノフはすでに後期ロマン派の作風による手法を確立しており、その作風に沿って作られた曲であると言われています。

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 op.36

The Cliburn
アガサ

荘厳な雰囲気でドラマチックな展開は、まさにラフマニノフワールドです。ラストのフィナーレは圧巻で鳥肌間違いなしです!

10の前奏曲 op.23

1903年に発表された、10曲からなる前奏曲集です。

この中で有名曲といえば、第5曲 ト短調「 アラ・マルチア」です。

この曲集の中で1番早くに完成した有名曲で、「プレリュード・マーチ」という愛称でも親しまれています。

第5曲 ト短調「 アラ・マルチア」

Olga Scheps
アガサ

冒頭から耳に残るような独特なメロディーとリズムで始まり、中間部ではロマンチックな旋律に魅了される、傑作です。

絵画的練習曲『音の絵』op.33、39

別々の時期に発表された、作品33と作品39の2巻があります。

どちらも練習曲というだけあって、非常に高度なテクニックが必要な曲ばかりです。

今回はよく知られている、作品33からは第7番 変ホ長調 アレグロ・コン・フオーコ(「市場の情景」)、作品39からは第6曲 イ短調 アレグロ―ピウ・モッソ―プレスト(「赤ずきんちゃんと狼」)をピックアップします。

第7番 変ホ長調 アレグロ・コン・フオーコ(「市場の情景」)

Dmitry Masleev

第6曲 イ短調 アレグロ―ピウ・モッソ―プレスト(「赤ずきんちゃんと狼」)

Valentina Lisitsa QOR Records Official channel
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他のラフマニノフの楽曲は抒情的なメロディーが盛り込まれていることが特徴的ですが、絵画的練習曲はプロコフィエフなどの作風に似た独創的な旋律が多いです。

ピアノ協奏曲

ラフマニノフは、生涯で4曲のピアノ協奏曲と1曲のピアノ狂詩曲を発表しました。

狂詩曲とは、ラプソディーとも呼ばれ、西洋音楽で一定の形式を持たず楽想を次々に配列した、自由で奔放華麗な器楽曲のことです。民族的な要素が多く組み込まれています。

その中で、有名曲は以下の3曲です。

詳しく見ていきましょう♪

ピアノ協奏曲についてはこちら♪

ピアノ協奏曲第2番

「ラフマニノフを語る上でピアノ協奏曲2番を知らずしては語れない」と言うほど、有名中の有名曲といっても過言ではありませんね♪

ラフマニノフが協奏曲作家として名声を打ち立てた出世作です。

発表以来、様々なピアニストによって歴史的な演奏がされてきました。

ラフマニノフが紡ぎ出すメロディーは本当に美しく感動的。その言葉に尽きます。

AVROTROS Klassiek
アガサ

1楽章から壮大でドラマチックな展開で始まり、繊細で心にスッと染み渡る2楽章、そしてドラマチックにフィナーレを迎える3楽章。
全楽章を通してラフマニノフの叙情的で甘美なメロディーを余すことなく堪能できます。

ピアノ協奏曲第3番

1909年に作曲され、同年11月にニューヨークで初演されたピアノ協奏曲第3番。

上述したピアノ協奏曲第2番と同様に、ラフマニノフの代表作のひとつです。

演奏者により解釈の仕方が異なり、聞いていて非常に楽しい作品です♪

AVROTROS Klassiek
アガサ

この作品を「私の曲」と呼んで演奏していたのがウラディミール・ホロヴィッツです。(上項でも触れましたがホロヴィッツとラフマニノフは親交がありました)
第2番と同様に非常に甘美なメロディーが随所に織り込まれています。
時には厳かに、時には濁流のように激しく目まぐるしい展開になりこの曲も「これぞラフマニノフ」といった手法が多く使われています。

パガニーニの主題による狂詩曲

主題と24の変奏から成る作品で、1934年に作曲されました。

非常に有名なメロディーですので、恐らく皆さんも1度は耳にしたことがあるのではないでしょうか?

ミハイル・フォーキン氏によってバレエ化されたことでも有名です♪

AVROTROS Klassiek
アガサ

有名な「ラーララドシラミーミ・・・」から始まるメロディ部分が主題となっており、この主題部分が変化していくという展開の楽曲です。
ピアノ協奏曲とはまた違った形式なので、聞いていて非常に楽しい作品の一つですね♪

交響曲

ラフマニノフの交響曲は、全部で3曲あります。

その中でも最も有名なのは第2番でしょう♪

交響曲第2番

1908年にペテルブルクで、ラフマニノフ自身の指揮により初演された作品です。

特に有名なのは3楽章で、みなさんコチラも1度は耳にされたことがあると思います!

AVROTROS Klassiek
アガサ

全楽章を通してドラマティックな展開が連続して構成されていますが、特に3楽章はラフマニノフならではの美しい旋律が涙腺を刺激してきます。
このメロディを聞くと自動的に涙が出る体になっているのか、私は毎回必ず涙してしまいます(笑)

声楽曲

ラフマニノフは、実は声楽曲も数多く作曲しているんです!

声楽曲の中でも歌曲の「ヴォカリーズ」は名曲です。

ヴォカリーズ

この曲も、きっと皆さん1度はどこかで聞いたことがあるメロディーなのではないでしょうか?

ピアノ伴奏付きの歌曲として作られた作品ですが、現在ではピアノ伴奏による器楽ソロやピアノソロなど多様な編曲が行われています。

松本和将 Kazumasa Matsumoto
アガサ

バロック音楽の手法を使った曲ですが、ラフマニノフ特有の旋律が非常に美しい有名曲です。
様々な編曲バージョンがありそれぞれに良さがあります♪

まとめ

今回は「作曲家や楽曲についてより深く知ろうシリーズ」第1弾として、ラフマニノフを取り上げましたがいかがでしたでしょうか。

夫(ピアノ未経験)

聞いたことがある曲が何曲もあって、意外だったしかっこいい曲も多くて一気に好きになった〜。

アガサ

おー!良かった♪
クラシックに馴染みがなくても、聞いたことがあるかも!って言う曲があると他の曲も聞きやすいと思うからこれからも色々聞いてみてほしいな♪

夫(ピアノ未経験)

ラフマニノフのことも少し分かったし、曲も知れたし良かったよ♪

名曲をたくさん生み出した天才作曲家ラフマニノフについて、取り上げましたがお楽しみいただけましたか?

挫折を経験した後、作曲家としてもピアニストとしても最高を収めていた彼だからこそ、生まれた作品も数多くあります。

彼の歩んできた人生や人物像、社会背景なども理解した上で様々な作品に触れてみるとまた違った見え方や演奏の仕方ができるはずです。

皆さんのお役に少しでも立てていれば、幸いです♪

次回はどの作曲家でしょうか?

お楽しみに♪

最後まで、ご覧いただきありがとうございました。

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